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北海道/函館.大沼公園
          2025年10月28.29日
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深川.芭蕉庵
小名木川舟番所
市川市.行徳
市川市.八幡
千葉県.鎌ヶ谷
印西市.木下
茨城県.鹿島神宮
亀の井ホテル潮来
芭蕉"鹿島紀行"(二)
潮来アンコウ鍋
鹿島・根本寺
香取神宮
『鹿島紀行』行程⇒
”鹿島紀行”全文


芭蕉44歳、貞享4年(1687年)将軍綱吉の治世で"生類憐みの令"が発せられた年
弟子の曾良と宗波を伴い鹿島、潮来方面『鹿島紀行』の旅に出た。
”鹿島紀行”全文
中川舟番所.資料館
禅の手ほどきを受けた深川.臨川寺(臨川寺HR⇒)の仏頂和尚が鹿島・根本寺に戻り、芭蕉を月見に誘う。そして芭蕉は『鹿島紀行』月見の旅に出る。


『鹿島紀行』行程⇒
深川.芭蕉庵から舟で小名木川を下り行徳(千葉/市川市)へ。更に八幡、鎌ヶ谷を通って布佐(我孫子)まで歩いた。布佐から利根川を舟で下り、佐原~潮来を経て大船津で下船し鹿島の根本寺(茨城県鹿嶋市宮中)に参禅の師.仏頂和尚を訪ね、翌日、鹿島神宮に参詣し、根本寺に一泊、雨間の月見をする。帰路、潮来の知人宅に立寄り潮来から江戸へ戻ったと考えられる。
『鹿島紀行』で芭蕉が詠んだ七句
月はやし 梢は雨を 持ながら
この松の 実生
(みば)えせし代や 神の秋
(しづ)の子や 稲摺(すり)かけて 月を見る
芋の葉や 月待
(まつ)里の 焼畑(やけばたけ)
根本寺
鹿島神宮
鹿嶋市下生
鹿島詣
寺に寝て まこと顔なる 月見哉
刈りかけし 田面
(たづら)の鶴や 里の秋
萩原や 一夜はやどせ 山の犬
根本寺
鹿島
根本寺
2025年10月28日
芭蕉『鹿島紀行』の足跡をたどる旅。都営地下鉄.森下駅から深川芭蕉庵跡へ
      都営地下鉄新宿線・森下駅
"芭蕉庵跡"は隅田川と小名木川の交わる辺りにある
 

”鹿島紀行”全文
深川.芭蕉庵
小名木川舟番所
市川市.行徳
市川市.八幡
千葉県.鎌ヶ谷
印西市.木下
茨城県.鹿島神宮
亀の井ホテル潮来
『鹿島紀行』行程⇒


森川許六(蕉門十哲)
"芭蕉庵跡"から見た隅田川 両国方面
『江戸名所図会』芭蕉庵
”鹿島紀行”全文
芭蕉一行は"芭蕉庵"前から舟で小名木川から新川、旧江戸川を下って下総国.行徳(千葉市川市)へ至った。









"芭蕉庵跡"から見た
隅田川.清州橋⇒






ドイツ・ケルン大橋⇒ 
芭蕉庵跡前の小名木川に架かる"萬年橋"この橋の方が"ケルン大橋"に似てる 
芭蕉一行はこのあたりから舟で小名川を下ったのだろう
 
柴の戸に 茶を木の葉掻く 嵐かな  
柴の生け垣で作った戸の近くで、木の葉が嵐に吹き寄せられる様子が聞こえる
松尾芭蕉が深川の草庵に移り住んで初めころ詠んだ句






”鹿島紀行”全文
深川.芭蕉庵
小名木川舟番所
市川市.行徳
市川市.八幡
千葉県.鎌ヶ谷
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茨城県.鹿島神宮
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『鹿島紀行』行程⇒
"芭蕉庵"はこの小名木川畔に建っていた
鹿島紀行行程⇒/深川芭蕉庵~行徳(木下街道)~八幡~鎌ヶ谷~布佐.木下
”鹿島紀行”全文
芭蕉庵跡~江東区芭蕉記念館から都営新宿線・森下駅へ
都営新宿線.東大島駅へ
都営新宿線・東大島駅
東大島駅から徒歩5分ほどで中川舟番所資料館~舟番所跡へ


”鹿島紀行”全文
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中川船番所は、寛文元年(1661年)66日小名木川の中川口北岸に設置され、江戸に出入りする人と物資を査検した川船改のための関所。

舟番所の規模は東西26間余(47メートル),南北17間余(約31メートル)と記されている。『江戸名所図会』の挿絵によると、番所の周囲には木柵がめぐらされ、槍10筋が装備され、小名木川縁には番小屋が建てられている。番所は明治2年廃止された。

中川舟番所.資料館



”鹿島紀行”全文
東大島駅から門前仲町経由で東西線.行徳駅へ移動する
東西線・行徳駅前から行徳河岸跡へは徒歩で20分ほど

東西線・行徳駅
『鹿島紀行』では、芭蕉は深川の庵から小名木川を舟で下って行徳河岸へ着いた


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更に行徳から、陸路で木下街道の下総・八幡(千葉県市川市)へ向かう
行徳駅から直進して旧江戸川べりに出る。気持ちいい川風を受けながら土手を進と大きな常夜燈が目に飛び込んでくる。寛永9年(1633)この場所に新河岸と呼ばれる船着場ができ、江戸小網町との間を往復し、物資を輸送した。


”鹿島紀行”全文
旧江戸川
この常夜燈は、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の成田山講中が、文化9年(1812)、航路の安全を願って奉納したものなので芭蕉が舟で下った以降にできたもの。高さ4.5mの巨大なもの、かつての繁栄を象徴する唯一のものとして市川市有形文化財に指定されている。
今は車道になっている道に入り東に向かって歩き始める
 1843年頃

河岸跡から権現坂道へ

「笹屋うどん跡」と標識のある古い建物、おいしいうどんが食べられただろう。





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左手の古い建物、旧田中邸。 
軒先に鹿島紀行で詠まれた「月はやし梢波雨を持ながら」芭蕉の句碑がある。 
(訳) 雨はやんだが、雲は飛ぶように早い。梢のあたりには、まだ先ほどの雨のしずくがそのまま残り、それに月の光があたって、美しくまたさわやかなことだ。雲のことは一語も言っていないが、雲が去来するさまをみずみずしく思わせてくれる。
趣のある裏道を通って、東西線.妙典駅へ
妙典駅から西船橋で乗換.船橋駅へむかう


”鹿島紀行”全文
今日10月28日の「鹿島紀行を辿る旅」では、順序が逆になっが、早朝一番で訪れたのは、芭蕉が木下街道で通った、八幡宿(千葉県市川市本八幡)。ここを歩いてから、都営新宿線に乗り、深川.芭蕉庵跡のある森下駅へむかった。


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JR本八幡駅
木下街道は、江戸から下総・常陸に至る道筋で、利根川方面へ直行できる道として貴重な往還道。芭蕉も貞享4年(1687年)この木下街道をたどって布佐、木下方面にへ向かった
JR本八幡駅から5分、国道14号線をはさんだ市役所の向かいに、鳥居と祠(ほこら)に護られた小さな竹藪がありこれが有名な「八幡の藪知らず」で、「ここに入れば再び出ることができないとか、祟りがあるといわれ、出口のわからないこと、迷うことなどにたとえる」さまざまな小説に、迷い込んで出られなくなることの喩えとして使われている。
芭蕉の『鹿島紀行』の行程には、江戸を出発し、鹿島に向かう途中で市川を通ったことが示され八幡の藪知らずは、市川市の中心部に位置しており、経路から外れることなく通過しただろう。
史実では、この地が行徳の入会地で、八幡の住民はみだりに入ることが許されなかったので、「八幡知らず」と言われたのが藪知らずになったのではないかと言われている。
木下街道は、江戸から下利根川方面への最短路として江戸時代に整備され、行徳、八幡、鎌ヶ谷、白井、大森、木下の6か所に宿がおかれた
”鹿島紀行”全文
下総国総鎮守 葛飾八幡宮は創建889年というから芭蕉一行は「鹿島紀行」の際、お参りしたと考えられる
葛飾八幡宮を通って都営新宿線本八幡駅へ
都営新宿線本八幡駅から森下駅~深川芭蕉庵跡へ(ページトップに戻る)そこから行徳を周って、次の船橋から木下街道沿いをすすんだ。
船橋駅北口から京成バスで、木下街道の”鎌ヶ谷”へ


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鎌ヶ谷大仏駅でバスト降りるとすぐ横に鎌ケ谷八幡神社
神社は寛永年間(1624-1645)木下街道の宿場 鎌ケ谷の鎮守として創建したと伝えられ、当時は鄙びた寒村の神社だったと思われるが、おそらく芭蕉一行はここも通過したことだろう。

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鎌ヶ谷大仏は安永5年(1776年)11月創建なので芭蕉は見ていない
船橋駅に戻り、寄り道して久しぶりに茨城県取手市にある友人のお墓参りをしていくことにする。
船橋駅から柏駅で乗り換えてJR取手駅へ
JR取手駅西口から守谷駅行のバスに乗ってり、早逝した友人のお墓をお参りして取手駅に戻り、芭蕉が陸路で着いた木下へJR成田線に乗って向かう。


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木下街道の終着地にあるJR木下(きおろし)駅
JR木下(きおろし)駅入口には昭和のにぎやかな時代の写真が飾られていたが、面影もないほど今はひなびてしまって寂しい
”鹿島紀行”全文
JR木下駅から800㍍利根川の”木下河岸跡”へ。銚子屋という旅館はうなぎが名物という宿だがこんな場所では経営もたいへんと思われる。
芭蕉一行は行徳から木下街道を下って布佐(木下河岸跡の少し上流)に到着。 
布佐で漁師の家でやすみ翌朝舟で鹿島に向かう予定だったが、漁師の家の生臭い魚の臭いで寝らず、月の明りがあるのを頼りに夜船で鹿島を目指した。
芭蕉一行は、左.上流の布佐から舟に乗って、ここ木下河岸跡を通って潮来・鹿島方面(右方向)に下った
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JR木下駅へ戻って、JR成田線で成田駅で乗換て佐原駅へ
成田から佐原で鹿島神宮行14:17分に乗換え


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14:34分鹿島線・延方駅に到着。
亀の井ホテル潮来の送迎バスで約10分ホテルに到着15:00チェックイン


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15:00~20:30一階ラウンジで「よがっぺ!」くつろぎ時間サービス
茨城のお酒やソフトドリンク飲み放題&スナックおつまみ食べ放題!
部屋は二階の218号和室 荷物を置いて早速お風呂へ。
"亀の井ホテル潮来"のHP画像
大浴場は低温浴と中温浴と寝湯が広々と三つありいいお湯!

”なまず鍋”


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夕食は一階レストランで18時から”なまず鍋”は初めて。
”なまず鍋”には理由があった。
地震は“地中に住む"大なまず"が暴れることで起きる”と昔から考えられてきた。
鹿島神宮の主祭神である武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)は、力強く、勇ましい神として知られ、"大なまず"を要石で封じ込めたという伝説が残り、要石はその"大なまず"の「頭」を押さえつけ地震を鎮めた守りの要として大切にされてきた。
今夜の料理はそんな鹿島神宮にまつわる"大なまず"伝説があったのかと納得した
夕方と夕食後と就寝前の三度お風呂に入る。
五十肩の痛みがひどかったが、少し改善したように思う
"亀の井ホテル潮来"のHP画像
早朝五時半からのお風呂は誰もいなく貸し切り状態。
10月29日 今日は快晴『芭蕉の鹿島紀行を辿る旅』の最後は鹿島神宮を歩く予定
”鹿島紀行”全文
10時チェックアウト
10:10分、ホテルの送迎バスの乗って鹿島神宮駅へ


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JR鹿島神宮駅から長い急坂を上って楼門まで約15分で到着。

御手洗池口鳥居
鹿島神宮.....Wikipedia参照
茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地に鎮座する。古くは『常陸国風土記』に鎮座が確認される東国随一の古社であり、日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(タケミカヅチ)を祭神とすることで知られる。常陸は古代国家領域の北端であったため、天孫に従い国土を平定した武甕槌神を祭神とする鹿島神宮は国家の北方の守護神として重視された。古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰される神社である。
文化財のうちでは「韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」と称される長大な直刀が国宝に指定されている。また境内が国の史跡に、本殿・拝殿・楼門など社殿7棟が国の重要文化財に指定されているほか、多くの文化財を現在に伝えている。鹿を神使とすることでも知られる。
日本三大楼門の一つの「鹿島神宮・楼門」は大改修工事中で残念な姿

実際の「楼門」↓...神宮HPより転載
神宮内に芭蕉の句碑は三つある、その一つ「楼門」裏手の句碑
       「名月や鶴脛高き遠干潟」


”鹿島紀行”全文
 名月や鶴脛高き遠干潟  (めいげつや つるはぎたかき とおひがた)
着物の裾を高く端折り、脛を鶴の足のように高く見せながら干潟の中に立つと、鹿島神宮から香取神宮が見晴らせた.......存疑の句=芭蕉が詠んだかは不明
拝殿



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奥参道入り口

奥宮に向かって300m程伸びる奥参道
奥参道の突き当りに「奥宮」がある。
鹿島神宮・奥宮






芭蕉句碑⇒

奥宮の前の茶店「瀞(とろむ)」脇に2つ目の句碑がある。
 此松の実生せし代や神の秋(このまつの みばえせしよか かみのあき)
この松が実生から芽を出した頃の神々がいた太古の秋の気を今も感じさせる
案内板には「俳聖松尾芭蕉が当神宮に参拝したおり詠んだ句(1687年)神前の前書がある」と書かれている
「要石」鹿島神宮の森の中、静かに佇む「要石(かなめいし)」は、古来より地震を鎮める力を持つとされる霊石で。日本列島の安定を祈る象徴として、多くの人々がその前で静かに手を合わせてきた。外から見えるのは、ほんの小さな石の一部、地表に出ているのは、わずか数十センチの丸い石。一見、ただの岩に見えるが、その下には“地の底”へと続く巨大な力が眠っていると信じられている。
日本では、昔から地震は“地中に住む大鯰(おおなまず)が暴れることで起きる”と考えられてきた。要石はその大鯰の「頭」を押さえつけているとされ、地震を鎮める守りの要として大切にされてきた。鹿島神宮の主祭神である武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)は、力強く、勇ましい神として知られ、大鯰を要石で封じ込めたという伝説は、ただの昔話ではなく、人々に「揺るぎない強さ」や「静けさの中にある力」を思い出させる。


”鹿島紀行”全文
地中深くまで埋まる要石が、地震を起こす鯰の頭を抑えていると古くから伝えられ、水戸の徳川光圀公がどこまで深く埋まっているか確かめようと7日7晩にわたって掘らせたものの、いつまで経っても辿り着くことができなかったばかりか、怪我人が続出したために掘ることを諦めた、という話が黄門仁徳録に記されている。
3つ目の芭蕉句碑は鹿島神宮「要石」の右手、「枯枝に鴉のとまりけり穐の暮」(かれえだに からすのとまりけり あきのくれ)延宝8年「字余り」の句。
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『鹿島紀行』行程⇒


 枯枝に鴉のとまりけり穐の暮  (かれえだに とりのとまりけり あきのくれ)
葉の落ちた枯れ枝にカラスがとまっている。静かな秋の夕暮れだ。寂寥とした秋の夕景を詠んだ句.......芭蕉が蕉風俳諧への転換期に作った作品
「要石」を見て折り返し奥参道の途中にある”さざれ石”
鹿島神宮・さざれ石は、単なる石ではなく「神聖な石」として信仰されて、神社のご神体の一部として『古今和歌集』から引用された「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」国歌"君が代"の一節にも登場する


”鹿島紀行”全文
鹿島神宮からJR駅に向かう途中、剣豪”塚原卜伝”の生誕の地を通る
塚原卜伝について.....Wikipediaから転載
日本の戦国時代の剣士、兵法家。父祖伝来の鹿島神流に加え、養父祖伝来の天真正伝香取神道流を修め鹿島新當流を開いた。幕末に活躍した山岡鉄舟は卜伝の子孫
若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする物語があるが、このような事実はなく、卜伝の強さを記す逸話だ

武蔵塚原試合図(明治の浮世絵師/月岡芳年画)
JR鹿島神宮駅に戻ってくる。松尾芭蕉の鹿島紀行を辿る旅はここで終わる
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『鹿島紀行』行程⇒



鹿島神宮駅から11:23の電車で~11:44 佐原着乗換 11:51~12:27 成田着乗換 12:46分発の電車で帰る
松尾芭蕉の鹿島紀行を辿る(一)終
北海道/函館.大沼公園
終

芭蕉"鹿島紀行"(後)
潮来アンコウ鍋
鹿島・根本寺
香取神宮
”鹿島紀行”全文
『鹿島紀行』行程⇒
芭蕉"鹿島紀行"(前)
小名木川舟番所
市川市.行徳
市川市.八幡
千葉県.鎌ヶ谷
印西市.木下
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森川許六(蕉門十哲)


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          2025年12月23~259日
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深川.芭蕉庵
小名木川舟番所
市川市.行徳
市川市.八幡
千葉県.鎌ヶ谷
印西市.木下
茨城県.鹿島神宮
亀の井ホテル潮来
”鹿島紀行”全文
芭蕉"鹿島紀行"(二)
潮来アンコウ鍋
鹿島・根本寺
香取神宮
『鹿島紀行』行程⇒
12月24日クリスマス.イブ 一年で最も晴天率の高い日が あいにくの小雨模様。
前回 鹿島に来た時寄れなかった芭蕉の『鹿島紀行』の目的地であった”根本寺”を訪ね、亀の井ホテル近く北浦"白鳥の里"へ白鳥を見に行く予定。
”鹿島紀行”全文
鹿島神宮~駅~根本寺⇒地図
『鹿島紀行』で芭蕉が詠んだ七句
月はやし 梢は雨を 持ながら
この松の 実生
(みば)えせし代や 神の秋
(しづ)の子や 稲摺(すり)かけて 月を見る
芋の葉や 月待
(まつ)里の 焼畑(やけばたけ)
根本寺
鹿島神宮
鹿嶋市下生
鹿島詣
寺に寝て まこと顔なる 月見哉
刈りかけし 田面
(たづら)の鶴や 里の秋
萩原や 一夜はやどせ 山の犬
根本寺
鹿島
根本寺

貞享4年(1687)「野ざらし紀行」を終え2年.芭蕉44歳、綱吉の治世"生類憐みの令"が発せられた年、禅の手ほどきを受けた深川臨川寺(臨川寺HR⇒)の仏頂和尚が鹿島・根本寺に戻って、月見に来るよう誘いの手紙が届いた。
弟子を伴い鹿島、潮来方面『鹿島紀行』の旅に出た。深川.芭蕉庵から舟で小名木川を下り行徳(千葉/市川市)へ。更に八幡、鎌ヶ谷を通って布佐(我孫子)まで歩いた。布佐から利根川を舟で下り、佐原~潮来を経て大船津で下船し鹿島の根本寺(茨城県鹿嶋市宮中)に参禅の師.仏頂和尚を訪ねる。翌日、鹿島神宮に参詣し、根本寺に一泊、雨間の月見をする。帰路、潮来の知人宅に立寄り潮来から江戸へ戻ったと考えられる。

佐原駅で乗換
二度目の松尾芭蕉『鹿島紀行』を辿る旅は、電車を乗り継いでJR成田線・佐原から延方へ



”鹿島紀行”全文
        「亀の井ホテル潮来」は二度目
ホテル近く北浦湖でこんな風景が見れるという、北浦の白鳥は人に慣れ近くに寄ってくるらしい、そうなら嬉しいのだが、期待を込め宿を予約した。
YahooトラベルHP・冬の北浦の画像↓  
24日午後3時、JR延方駅前からホテルの送迎バスに乗り10分。
ホテルへチェックイン。
今日は24日、クリスマス・イブだが年配客中心の宿なので、ツリー飾りも何も無く普段と変わらない淋しいロビー
前回は和室だったが今日はツインルームにした。
15:00~人気のフリードリンク
部屋は二階の215号 荷物を置いて早速大浴場へ。
ここの温泉は五十肩にとても良く効いて、だいぶ改善したので今度も期待して何度も入ろうと決めてきた
"亀の井ホテル潮来/天然温泉・大浴場" HotelのHP画像
夕食は18:15分から、茨城県名物の ”あんこう鍋” 初めて楽しみである
あんこう鍋


”鹿島紀行”全文
ローストビーフ~お造り
あんこう鍋
あんこう
鍋産地: 常磐沖(福島~茨城)で獲れるものが最高品質とされ、旬は 11月~3月頃が最盛期で、特に肝が肥大する冬が旬。
黄色みがかった「キアンコウ」が一般的で、肝の脂の質が良いとされる。ヌルヌルして扱いにくいため、「吊るし切り」という独特の方法で解体される。
七つ道具: 身、皮、肝、胃、卵巣、エラ、ヒレの全てが食べられ、余すことなく味わえる。
あんこう鍋
あんこうは特異な風貌からは想像できない美味しさ 
あん肝茶碗蒸し~ロブスター
釜めし~デザート
ゆっくり食べ、寝る前に二度お風呂へ。
確かに五十肩が改善していくのがわかる。ありがたい。
 
12月25日 霧の曇天
早起きする
7時フロントへ寄る、「白鳥はこの霧の中ではどうでしょうかね~」とあまり期待できなそうな予感がしたが行くしかない。



”鹿島紀行”全文
ホテル前の寒椿が霧に煙って赤くきれい、寒く霧で煙った道を”白鳥の里”へ向かって歩く。
北浦の白鳥の里はホテルから坂道を下って左折約10分程で到着
北浦の白鳥の里『YahooトラベルHP・冬の北浦の画像』
こんな光景を見たかったのだが、霧の立ち込めた今朝の北浦に白鳥の姿がない
  悔しい!今朝の北浦は こんな淋しい風景
がっかりだがやむを得ない。
約一キロの道をホテルに戻り身体が冷え切っていたので、大浴場へ、朝食時間のせいもあって大浴場を貸切状態でゆっくり入る。
8:00に一階レストランで朝食



”鹿島紀行”全文
10:10分 チェックアウト。宿のバスで鹿島神宮駅へ送ってもらう
鹿島神宮駅から、芭蕉の"鹿島紀行"目的地の根本寺へ歩く⇒歩き地図
鹿島神宮駅観光案内所で根本寺の場所を教えてもらい出発
338年前江戸時代、松尾芭蕉が月見に訪れ滞在した『根本寺
延宝8年(1680)深川に移り住んだ松尾芭蕉は二歳年上の仏頂禅師の人柄に感服し、足繁く参禅するようになりました。芭蕉庵と呼ばれた草庵が、臨川庵とほんの五百メートルほどしか離れていなかったことも、二人の交流を深める助けとなったのでしょう。
芭蕉庵は新しい俳風を模索する一門の拠点となっていきました。号を桃青から芭蕉翁と改めたのも頃のことです。禅味が加わった芭蕉の作風は、従来見られなかった高い精神性を俳句の世界にもたらし、文芸としての価値を世間に知らしめました。臨川寺には「玄武仏碑」をはじめ、「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残され芭蕉ゆかりの寺として知られています。
芭蕉ゆかり「臨川寺」HPより
鹿島神宮駅から城山公園の小道を抜けて約15分で到着





”鹿島紀行”全文
瑞鷹山・根本寺は、推古天皇20年(612年)に聖徳太子が創建した寺と伝えられている。建久2年(1191年)に源頼朝により再興され、弘安4年(1281年)の蒙古襲来の時に勅印を与えられた古い寺。
根本寺本堂・薬師如来像
松尾芭蕉が貞享4年(1687年)8月、この寺を訪れその夜、雨後の月見をした。このときの旅を記した文が『鹿島詣』(鹿島紀行)「月早し 梢は雨を持ちながら」「寺に寝て まこと顔なる月見かな」と詠んだ俳句の石碑が境内と本堂前に建てられている。






338年前、芭蕉は門人を伴い参拝したのだ、想いを馳せながらお参りする
”鹿島紀行”全文
『月はやし 梢は雨を 持ちながら』ばせを(芭蕉) 『寺に寝て まこと顔なる 月見かな』 ばせを(芭蕉)
(意)
先ほどまで降っていた雨は上がった。雲間を走る月は早く、木々のこずえはまだ露を抱いている
(意)
禅寺の清澄な中で仲秋の名月に参加し心はもとより顔まで引き締まったようになる。実際は小雨が降って月見はできなかったが、禅寺の雰囲気が清澄な気分をかもした
根本寺の参拝を終え、鹿島神宮駅に戻りJR成田線11:23分の電車に乗り、11:39分香取神宮駅で下車。 朱色の趣のある駅舎だが無人駅 



”鹿島紀行”全文

JR成田線・香取駅
香取神宮まで、ここから2㌔の田園道を歩いて行く
香取神宮まで、駅から2㌔の田園道を歩いて行く。
鳥居の先に”神道山古墳群”

案内板によると
『前方後円墳1基(全長約46m、高さ4m)・円墳11基からなる古墳時代後期の古墳群。1928(昭和3)年、考古学研究者の吉田文俊により発見、報告された。当時は「香取神宮主の御陵墓か」と報じられたこともあった』




”鹿島紀行”全文
香取駅からゆっくり歩きお昼過ぎに参道駐車場に到着。あいにくの天気で参詣者は数えるくらい。人影のない参道をすすむ。
駐車場前の参道には土産店が立ち並んでいる。

土産物店の並んだ先に、朱塗りの大鳥居が見える。
鳥居河岸に続く香取神宮の第二の鳥居で、鳥居の朱と周囲の老杉と調和し、神域への入口にふさわしい雰囲気。

朱塗りの楼門。香取神宮のシンボル的な建物。
楼上にある「香取神宮」の額は、日露戦争の勝利を導いた「東郷平八郎」の筆


香取神宮境内案内図

香取神宮は、下総国(千葉県)の宮で、全国約400社の香取神社の総本社。
茨城県の鹿島神宮・息栖神社と合わせて“東国三社”と呼ばれ、その創建は、紀元前600年だったのだと伝えられている。
明治時代以前「神宮」という称号で呼ばれたのは、伊勢・香取・鹿島の3社だけ。


”鹿島紀行”全文

本殿前に直径約3メートルの「茅の輪(ちのわ)」12月に行われる神事「大祓(おおはらえ)式」のためのもの、12月は大みそかに、新しい年を無事に過ごすことなどへの願いを込め、輪をくぐって病気や災いなどの厄を払い、心身を清める。

平成26年(2014年)の式年神幸祭の記念碑。
「大和心」の題字は、香取神宮の奉賛会長だった安倍晋三元総理の書。


”鹿島紀行”全文
旧参道を通ると鹿島神宮にもあった「要石」がここにもあった。
どちらも同じ意味で、地震は地中にいる大きなナマズが暴れることによって起こるものと考えられていた。

香取神宮・鹿島神宮の両神が、地中深くに石棒を差し込むことで治めたとされており、こちらにある要石も、深さ幾十尺と伝えられているが、1648年に水戸光圀公が神宮参拝の折りにこれを堀った際も、ついに根本を見ることはできなかったという。

「要石」
  佐原秋大祭り⇒
  佐原

芭蕉"鹿島紀行"(二)
潮来アンコウ鍋
鹿島・根本寺
香取神宮
”鹿島紀行”全文
『鹿島紀行』行程⇒
芭蕉"鹿島紀行"(一)
小名木川舟番所
市川市.行徳
市川市.八幡
千葉県.鎌ヶ谷
印西市.木下
茨城県.鹿島神宮
亀の井ホテル潮来
香取神宮の参拝を終え、佐原の町に寄る予定だったがあいにくの天候なので、帰ることにする。
香取神宮から13:20分のコニュニティーバスに乗って佐原駅へ
”鹿島紀行”全文
                        JR・佐原駅        
白鳥も見られず心残りのまま、佐原の町にも寄らずに帰る。
北海道/函館.大沼公園
終


 
    
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   鹿島紀行 全文     現代語訳

らくの貞室、須磨のうらの月見にゆきて「松陰や月は三五や中納言」といひけむ、狂夫のむかしもなつかしきまゝに、このあきかしまの山の月見んとおもひたつ事あり。ともなふ人ふたり、浪客の士ひとり、ひとりは水雲の僧。僧はからすのごとくなる墨のころもに、三衣の袋をえりにうちかけ、出山の尊像をづしにあがめ入テうしろに背負、【手偏+主】杖ひきならして、無門の関もさはるものなく、あめつちに独歩していでぬ。
京都の俳諧師安原貞室が須磨の浦の月を見に行って「松の梢に十五夜の月が出ている。ここ須磨に流された中納言行平も、これと同じ月を見たのかなあ」と言った、風流に没頭した人の昔がなつかしさにまかせて、この秋(貞享3年(1687年)8月)、鹿島神宮の月を見ようと思い立った。旅に伴う人が二人ある。浪人一人。もう一人は行脚の禅僧である。この僧は烏のように真っ黒な墨染めの衣に、頭陀袋をえりにかけ、釈迦が山を出た時の像を箱にありがたく入れて後ろに背負い、禅僧の持つ杖をひきならして、悟りに至る門は無くても悟りに至る路は無数にあり、その途中の関所も問題ないと、天であろうと地であろうと、独り歩いて出発するのだ。


いまひとりは、僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠の間に名をかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく、門よりふねにのりて、行徳といふところにいたる。ふねをあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。
甲斐のくによりある人の得させたる、檜もてつくれる笠を、おのゝいたゞきよそひて、やはたといふ里をすぐれば、かまがいの原といふ所、ひろき野あり。秦甸の一千里とかや、めもはるかにみわたさるゝ。つくば山むかふに高く、ニ峯ならびたてり。かのもろこしに双剣のみねありときこえしは、廬山の一隅なり。

さてもう一人である私は、僧でもなく、俗人でもなく、ちょうど鳥でもなく鼠でもない、蝙蝠のように中途半端な姿であるが、「鳥なき島の蝙蝠」の諺通り、鳥…すぐれた人物のいない島にわたって蝙蝠…つまらない者が幅をきかせるべく、深川の庵の門前から船に乗って(小名木川に漕ぎ出し)、行徳という所に至った。舟をあがると、馬にも乗らず、細い脛の力をためそうと歩いていくことにした。
甲斐の国からある人が送ってくれた檜でつくった笠を、三人それぞれかぶって、八幡という里を過ぎると、鎌谷(かまがい)の原という所に、広い野があった。まさに「秦甸の一千里」とも言うべきか。はるかに見渡される。筑波山が向こうに高く、男体山・女体山の二つの峯が並び立っている。例の、中国に双剣の峯があると聞いているのは、廬山の一隅である。


ゆきは不申先むらさきのつくばかな
と詠しは、我門人嵐雪が句也。すべてこの山は、やまとだけの尊の言葉をつたえて、連歌する人のはじめにも名付たり。和歌なくばあるべからず、句なくばすぐべからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。

ゆきは不申先むらさきのつくばかな雪が降りかかっているのは言うまでも無いが、まず春の紫にかすむ筑波山の姿が素晴らしい。と詠んだのは、わが門人服部嵐雪の句だ。いったいこの山は、ヤマトタケルノミコトが最初にお供の老人と連歌したという言葉を伝えて、連歌する人の起源とし、連歌のことを「筑波の道」とも言うのだ。せっかく筑波山にきて歌を詠まないのはもったいない。句を作らないで通り過ぎるものではない。実に愛すべき山の姿であることだなあ。

萩は錦を地にしけらんやうにて、ためなかゞ長櫃に折入て、みやこのつとにもたせけるも、風流にくからず。きちかう・をみなへし・かるかや・尾花みだれあひて、さをしかのつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、またあはれなり。日既に暮かゝるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。此川にて鮭の網代といふものをたくみて、武江の市にひさぐもの有。よひのほど、其漁家に入りてやすらふ。よるのやどなまぐさし。月くまなくはれけるまゝに、夜舟さしくだしてかしまにいたる。

萩は錦を地に敷いたように見事に散り敷き、橘為仲が長櫃に宮城野の萩を折りいれて、都への土産として持たせたのも風流なことだと感じ入った。ききょう・おみなえし、かるかや、尾花などが乱れあって、牡鹿が妻をしたってあちこちで鳴くのも、たいへん趣深い。放し飼いの馬が所知ったる顔で群れ歩いているのも、また趣深い。 日がようやく暮れかかるころ、利根川のほとり布佐という所につく。この川で鮭をとるために網代を仕掛けて、江戸の市で商売をしているものがあった。宵の間、その漁師の家で休んだ。夜の宿は生臭い。月がくまなく晴れわたっているのにまかせて、夜に舟を出発させて川を下り鹿島に至る。

ひるよりあめしきりにふりて、月見るべくもあらず。ふもとに、根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此寺におはしけるといふを聞て、尋入てふしぬ。すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけむ、しばらく清浄の心をうるににたり。あかつきのそら、いさゝかはれけるを、和尚起し驚シ侍れば、人々起出ぬ。月のひかり、雨の音、たゞあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるゞると月みにきたるかひなきこそほゐなきわざなれ。かの何がしの女すら、郭公の歌、得よまでかへりわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならむかし。

昼から雨がしきりに降って、月を見ることもできない。鹿島山のふもとに根本寺の前の和尚仏頂上和尚が今は世を逃れてこの寺にいらっしゃると聞いて、訪ねていって泊まった。杜甫が「人をして深省を発せしむ」と詠んだ、実にそんな感じで、しばらく清らかな心を得た気持ちになった。夜明けの空がちょっと晴れてきたころ、仏頂和尚が寺の人々を起こすと人々は起きてきた。月の光、雨の音、ただ趣深い景色ばかりが胸に満ちて、句など、とてもできない。はるばると月を見にきたのに甲斐の無く、不本意なことだ。しかし、かの清少納言だって、ほととぎすの声を聞いたものの、ついに歌を詠まないで帰るのを気に病んだというから、清少納言は私にとって心強い味方といえるかもしれない。

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